今回は、「洗濯…」ではなく、
前回も登場した「試行錯誤」について、もう少し考えてみたいと思います。
そもそも、みなさんは「試行錯誤」を、本当に「いいこと」だと思っていますか?
この言葉をよく見ると、
「試行」と「錯誤」の2つの熟語からできていることがわかります。
「試行」とは「試しにやってみること」、
そして…
「錯誤」は「誤り、間違うこと」です。
英語にした場合も「trial and error」ですから、どちらにせよ、そこには「間違う」という意味が織り込まれています。
それでもなお、みなさんは「試行錯誤」を受け入れてくれますか。
例えば、次のような日常の場面を思い浮かべてください。
[ある場面]
子ども |
「この水たまり、飛び越えられるかな?」(心の声) |
親 |
「(嫌な予感)ちょっと、そっち行かないでよ。聞いてる!!」
バシャ!! |
親 |
「もぉぉ、何やってんのよぉ!」 |
この出来事は、親御さんの洗濯物が増えたという点を除けば、この子にとって、とても貴重な経験になっています。
「試行錯誤」を受け入れるということは、「洗濯物が増える」ことや、「多少のケガをする」ことを受け入れることでもあります。
米国Apple社のスティーブ・ジョブズに信頼され、教育分野を全面的に任されていた「ジョン・カウチ」という人物は、教育する側の立場にある人間たちに向かって「失敗を後押しせよ」と強く訴えています。
彼から見ると、Apple社で働いているような世界中から集った優秀な若者たちでも、まだ、「失敗を恐れている」ように見えるのですね。
もちろん、取り返しのつかないような大ケガや大事故は防がなくてはなりません。
ただ、大人はどうしても、それまでの経験や常識で判断し、「止めておきなさい」と制止しがちです。
いわゆる「物分かりのいい子」なら、「うん、わかった」となるかもしれません。でも、その子は自分がどこまで飛べるのか、失敗したらどうなるのか、実際に知ることはできません。
一方、実際に「失敗」した子どもは、自分の限界や可能性を「実体験」を通して知ることができます。
もし、将来、どうしてもジャンプしなければいけない場面に遭遇した時、「このくらいは行けるな」とか「仮に失敗したら、こんなことが起きるな」と、予測したり、備えたりすることもできるはずです。
そして、もう一つ、
大人が「試行錯誤」をむやみに止めてはいけない、もっと重要な理由があります。
それは、大人や先輩たちが制止させるときに根拠とした「経験や常識」が、すでに「過去の遺物」になっているかもしれないということです。
「これからの30年」の間に起こる、さまざまな社会の変化に対して、今の大人が見てきた「これまでの30年」の経験が、どれだけ役に立つのでしょうか。
過去のどの時代よりも予測の難しい現代において、子どもや若者の「間違い」や「失敗」を恐れない跳躍は希望の光です。
これまでの教育は「転ばぬ先の杖」的な側面が強かったように思います。今後は「転ぶことを恐れない姿勢」を後押しし、転んだとしても「立ち上がる術」を学ぶ、そんな教育へ転換すべきではないでしょうか。
ところで、私たち大人は、最近、何かに「失敗を恐れず」チャレンジしましたか?
私の周りには、「洗濯物が多そうな」子どもみたいな大人が結構います。
実は私自身は「転ばぬ先の杖」的なところが残っている(と自分では)思っているので、色々な価値観を持った大人が相手をしてくれて、わが子の「冒険」を後押ししてくれることに、とても感謝しています。(この場を借りて、ありがとう!)
もちろん「冒険」のあとには大量の「洗濯物」が待っているのですが…
これで、6時間目の授業を終わります。