HOME CULTURE & LIFE PERSON No.4 井戸尻考古館館長×語り部 小松隆史(茅野市在住、富士見町勤務)

縄文銀座と呼ばれるほどの賑わいを見せた八ヶ岳一帯には、今でも数多くの遺跡が発掘され続けている。国宝として知られる縄文のヴィーナスや仮面のヴィーナスだけでなく、海外から注目を浴びるたくさんの土偶や土器が存在しているのだ。

八ヶ岳を囲むそれぞれの市町村にある遺跡展示施設の中でも、富士見町の井戸尻考古館(井戸尻遺跡隣)には、訪れた人が口をそろえて“すばらしい解説だった…”“感動した…”とまるで、自分が縄文時代にタイムトリップしたかのような気持ちにさせるくれる人物(学芸員)がいる。

今回のインタビューでは、こちら井戸尻考古館の館長でもあり縄文文化の名物解説者でもある小松隆史さんにご自身と縄文のお話しを伺った。(以下、敬称略)

※このインタビューの数日後、文化庁による平成30年度の日本遺産認定において、長野県が代表して申請した「星降る中部高地の縄文世界-数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅-」が日本遺産に認定されました。

小松さんによる考古館解説を40分していただいてから取材に入りました。しかも300円!

出会ってしまった縄文

―小松さんは大学で考古学を専攻していたそうですね。考古学にも分野があると思うのですが、その辺りを教えてください。

小松:僕の専門は縄文でした。でも母校には縄文専門の先生がいなくて“この学校に来てなんで縄文やるんだ”とも言われました(笑)けれど卒論は縄文の石器について書いたんです。その先生に付いてアラブ首長国連邦の調査について行ったりもしましたね。その後は大学院に行って江戸時代の焼き物の研究をしていました。

―最初が縄文からだったんですね!いつ頃から縄文に興味が芽生えたのですか?

小松:生まれが岡谷だったので小学生のころから、この辺りの発掘文化に興味がありました。中学のとき、外を歩いていて石の錘(おもり)を拾ったことがあって、僕はそれを岡谷の考古館に見せに行ったんですよね。

すると学芸員の先生が「それは3500年前の魚を採るための錘だよ」と言ったんです。

そのとき僕は“なんでこんなことわかるんだ!!”と感動しました。そして“将来、こういう人になりたい”と思いました。

小松さんの宝物。中学の時に拾った錘。後に、小松さんは3500年前のものだと教えてくれた学芸員の先生と再会し、一緒に仕事をするようになりました。

井戸尻考古館での縄文修行

―小松さんの考古館解説は神話や祈り、縄文遺跡以外の暮らしの話しがたくさん登場しますが、考古学の世界ではむしろ珍しいのではないでしょうか?

小松:そうなんです、これは井戸尻考古館の代々の先輩方がやってきたやり方です。考古学という枠にしばられて話をするのではなく、まずは当時(縄文時代)の人に自分が近づいていけ、という教えでした。その上で、神話学・民俗学・社会学・哲学のすべて動員して縄文人を生きろというものでした。

正直、最初は僕も大学で学んだことと全く違うことに消化不良を起こしましたが、実践しているうちに、僕の中にある根本―好奇心―に触れてきて、“人が生きる”ということに縄文時代がすり合ってきたんです。土器も石器もひとつのモノではなく、ひとりの人が使っていた道具という認識に変わっていきました。道具を通して、その人と僕が3500年を通って繋がった!という充実感ですね。

(編集部:言葉では表すことができませんが、このお話しを伺ったとき鳥肌が立ってしまいました)

―井戸尻考古館では具体的にはどんなことをされてきたのでしょうか?

小松:それは縄文人として生きるために、自分で土器を作り、石器を作り、その石器で畑を耕すことでした。ここに勤めていきなり「小松、畑耕してこい」と言われましたからね。「鍬はどうしましょう?」と聞けば「作れや」と(笑)

石器が専門だったこともあって、川に行って、石を割って、木の枝をつくるために木を切ってこなければいけないことに気付いて…今度はその木を切る為に斧を作らなきゃ!と…。畑を作ることにどれだけの作業があるのかと身をもってわかりました。でも、よくよく考えたら、春に木を切るなんてナンセンスで、木を切るに適した時期や種類もわかってきました。結局、それらは大学では学ぶことがなかったことなんです。僕は迷い戸惑いながらも身をもって“これだっ”と思うようになりました。

考古学を超えて…

―素晴らしい活動ですね…。考古学の枠から飛び出して、小松さんが縄文人になっていくという…

小松:そうなんです。そんな井戸尻での日々の中から、僕は人間を知りたいんだとわかってきました。縄文文化というよりも「ある時代にここで暮らしてきた人々」のことを知りたい、そう気づいていくと、もはや考古学という枠に囚われてはいかんのだと。先ほどお話しした鍬作りについても、この次にもっと大事なことがわかってきました。

それは“道具というものを何故人は手にするのか”ということです。

道具とは、その人が自分の仕事を助けるために使いますよね。ということは、自分の身体や癖に合ったものを作るんであって、僕の鍬は他の人には使いにくい。つまり、「畑耕してこい」は「お前の道具を作れ」ということで、同時に「自分を知る」ということでもあり「当時の人を知る」ということなんです。これは果てしないことです。

でも、こうやっていく内に、発掘された矢じりに一見、無意味なコブ(突起)があっても、当時の人と同じように道具を作ることによって、その意味がわかっていきます。縄文人と自分が「ああぁーー!」と、重なっていくんです。まるで縄文人が隣で「よく気付いてくれた~」と言ってるかのような気がします(笑)

(編集部:井戸尻考古館開館以来、歴代のスタッフの人たちはずっとこの実体験スタイルで石器の全貌を探求しているそうです。考古館ではその再現展示物を見ることができますよ!)

東日本大震災がもたらした変化

―ユニークな解説で知られる井戸尻考古館ですが、縄文を求めて訪れる方々の反応はいかがですか?

小松:実は、3.11東日本大震災の5年ほど前から少しずつ兆候が見え始めたのですが、訪れるお客さんの求めるものが3.11をきっかけにハッキリと変化しました。5000年前の土器を知識として観にきたのではなく、そこから“本来の人間としての”智慧を得ようとしていている…もうそれはそれは、あの日を境にした明らかな変化でした。

「私たちがどう生かされ、どう生きればいいか」その手掛かりが過去にあるはず…未来を過去に求め、過去が未来になる、そう観るお客さんがぐっと増えました。僕たちが井戸尻考古館でやってきた在り方とお客さんの求めるものとピタッと合ってきたんです。

自分を知るための縄文

―最後に、小松さんにとって縄文とはどういう存在か?を教えて頂けますか。

小松:僕がこれまでのことを通して感じたことは、縄文を通して自分が見える、ということです。自分探しとはちょっと違う、知識ではない智慧。過去を知ることで、今生きる私たちの正体を知る、そして未来にどう生きるか見えてくる。ここに訪れた皆さんにも、そこを感じてもらえたらと思っています。

―小松さんを通して見える縄文の魅力、縄文を通して見える小松さんの奥深さを垣間見ることができました。ほんの少しの地下に3500年前がある…この地で暮らしていることに新たな喜びが生まれます。素晴らしいインタビューをありがとうございました!

取材:8mot編集長みっちゃん

Profile

小松隆史(こまつたかし)

井戸尻考古館館長(学芸員)
長野県岡谷市生まれ。
1980年学校の近くの遺跡で初めて縄文土器を拾い、それが3500年前の石の錘(おもり)だと、学芸員に教えてもらい衝撃を受け将来の道が決まる。
1994年長野県富士見町に就職。井戸尻考古館に勤務。以後、「自ら縄文人に近づく」を信条に、研究、発掘調査を続けている。

〇著作(共著)『甦る高原の縄文王国』2004井戸尻考古館編言叢社、『中近世陶磁器の考古学第六巻』2017雄山閣

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